(1)開創と開山

 法泉寺の創立年代と創立者等は不詳なれど延長年間(923〜931)宇高古土居(富留土居)城主の菩堤所として開創されたとつたえられている。

 四天王の随一毘沙門天を本尊とし,背に鎮守女乙山に神竜王の女乙明神祀る。
 境内には神宮皇后の伝説を秘めた椋の古木があり、鎮守社として右手の山頂に女乙神社があり、祭神は龍王と三宝荒神、若宮大権現の三柱とされている。

 天正13年(1585)豊臣秀吉の四国攻めの時、時の富留土居城主であった宇高大炊佐種長、その子高橋丹後守光国は秀吉軍に抗戦するも、ついに敗れ一門が滅亡す

天正の頃の城主であった宇高大炊佐種長、高橋丹後守(大炊佐種長嫡子とその子孫高橋左右衛門大輔(大炊佐種長孫)高橋久兵衛光義(大炊佐種長曾孫)等の位牌が祀られ、年回忌の供養が行われた折、戒名を贈ったことが当山の過去帖に載せられている。

 しかし、高橋丹後守光国の子は幼く家臣に護られ、難を避ける。戦乱治まり宇高下原に住み成長して後、高橋左右衛門大輔(大炊佐種長孫)となのり高橋家を立てる。その子高橋久兵衛光義(大炊佐種長曾孫)が初代宇高大庄屋となり、また二代目宇高大庄屋光近も当山の護持に尽くす。

 開山は太子堂由来記に寛永の頃、法泉寺住職照蓮(性蓮)法師が町の太子庵を再建し、慶安2年(1649年)に八幡社の遷宮の導師を勤むある。これにより寛永(1624〜1642年)の頃と推察される。

 高橋光近次男光房は寛文(1661〜1672)のころ垣生に移り、垣生の庄屋を勤めた。その子孫は信心殊に篤く明治に至るまで代々外護に勤める。また、垣生村もこの頃より塩田の開発と共に繁盛し、宇高、田の上、垣生の各村の檀信徒の信心と歴代住職のもと寺門の興隆に尽くし今日に及ぶ。

(2)徳川藩政時代と歴代住職

 住職照蓮(性蓮)法師の頃(天保時代1830年〜1843年)宇高古土居(富留土居)城主子孫高橋久兵衛光義(大炊佐種長曾孫)が宇高大庄屋を勤め当山の護持に尽くす。

 寛文の頃(1661年〜1672年)宇高大庄屋高橋小左衛門光近二男六良右衛門光房が垣生に来たりて初代垣生庄屋を勤む、以後垣生は塩田の開発と共に繁盛するが、垣生の発展と共に寺門も興隆していく。

 このことは当山の過去帖の初筆が寛文より始まることからも窺え、又、先代住職の最初の石塔(龍章大法師)建立が元文2年(1736年〜1740年)であるところを見れば元文の頃には当山の伽藍が整備されていたことが解る。

 龍章弟子龍昌代の宝歴3年(1753年)西條藩の租税が二倍近く引き上げられ、領民が困窮し遂に又野の人村上平兵衛、宇高の人高橋孫兵衛、同高橋弥市左衛門の三人が強訴に至り、宝歴4年11月21日(1754年)に3人が処刑されるという事件が起こるしかし、租税は軽減され領民は救われたという。(三義民)

 三義民
 宝歴3年(1753)西条藩は領民に対して年貢を前年に比べて2割2分から多いところで2割6分3厘という増率で引き上げた。領民は騒然となり、各所に寄り合って種々協議を行い、「増免」の嘆願書を提出したが、一方藩庁においては、これらの嘆願は一切受けつけない強い方針で望み、領内の動静については警戒を厳しくして事にあたった。
 領民は困窮し、ついに又野の人村上平兵衛、宇高の人高橋孫兵衛、高橋弥市左衛門の三人は領民のため、意を決して嘆願書をふところに西條藩庁へ強訴に立ち上がったのであった。時は宝歴3年12月10日(1753年)の出来事である。その日は西条領内は、「おぴただしく加茂川へ東西百姓集まり申し候よし」の記録が残っていると聞く。騒然さはさぞかし悲壮そのものであったであろう。
 強訴の結果は百姓の言い分を西條藩庁は聞き入れ領民は救われる事となる。しかし首謀者3名は約1ケ年入牢の末、宝歴4年11月21(1754年)日西条椰木(なぎのき)の刑場で打ち首となる。その間、領内の寺院や庄屋また藩士からも命乞いの嘆願書がたくさん各地から出され、ようやく江戸よりご赦免が出てその知らせが着いたのは11月22日で処刑の翌日でした。思えば誠によくよく残念なことであったと思う。西条の領民もその恩徳に対して追慕したことでしょう.当山位牌堂に安置されている3人の位牌の裏側には「宝歴14年11月21日施主 垣生村村中 毎月回向可致也」とあり、垣生村においても10年後村中あげて供養につとめたことが伺える。
 また、さらに3人を神として祀りその徳をたたええている。
 西条伊曽乃神社の境内に村上神社、又野阿弥陀堂の村上平兵衛神社。東田の東田神社の境内に3義民社、滝の宮の3義民社、沢津の阿弥陀堂の3義民、宇高の八幡神社の境内に宇高神社の3柱神、etc。まだ他にもたくさんあると思われる。
 星霜過ぎること248年「去る人、日々疎し」ここに略歴をかかげて忘却を呼び起こしその供養とするものです。(この文は新居浜郷土史談第三号の3義民物語より抜粋しております)

 大原家の古文書によればこの事件の後、稲に大量の稲虫が発生して米が不作になったことから、三霊のたたりが原因と考えられ、村民挙げて三義民の供養に勤めた。

 その時小社を勧請して祈祷札も発行している事が書かれているが、現在夏に行われているハンニャ(大般若祈祷)さんも虫除けとお札を辻辻に立てるところがよく似ており、この三義民と関係があると思われる。

 明辧法印代の安永4年(1775年)、二間半四面の大師堂を再建、安永8年(1779年)鐘楼堂並びに鐘、天明7年(1787年)山門(棟行二間)を創建して伽藍の整備が進む

 この時代の本堂(梁行四間、桁行き七間)は庫裡、客殿も一つの建物で用をなし、屋根は篠葺きで建てられていた。 又女乙山には鎮守女乙明神社(宝歴12年(1762年)再建、梁行三尺、桁行五尺)荒神社(明和9年(1772年)再建、梁行二尺、桁行三尺という小社が二つ建てられていた。(当山守護記録)

 天明の頃(1781年〜1789年)には本堂兼客殿庫裡は老朽化しており、先住宜忍法印の代に13年の歳月と合力3、500人という多大な尽力をかけ本堂兼客殿(五間、七間)と庫裡(四間半、七間)を寛政10年(1798年)に再建してそれまでの本堂と違い庫裡を独立させた上、屋根は瓦葺きの伽藍が整備されることとなった。又女乙山には寛政5年(1793年)村中が願主となり若宮小社を新たに勧請創建して三社が整う。

 宜澄法印代の文化三年(1806年)10月29日夜、垣生山端に火起こりて152軒消失するという大火があり当寺より救済に米15右余りを助成、そのことが藩に達し文化6年(1809年)3月に銀五枚下される。その銀子を元として金7両をもって鉄灯籠を求め本尊宝前に永代献灯する。

 垣生の大火と手水鉢と鉄灯籠
 当山第7代住職宜澄法印代の文化3年10月29日夜、垣生山端に失火ありて軒並み延焼する事152軒に及ぶ大火があった。その当時の垣生の戸数は400軒余りだと推定されるので田舎にしては大災でした。藩庁、庄屋からの救済はもちろんですが、当山からも救済に米15石余りを助成する。そのことが、藩に達し文化6年3月に銀5枚くだされ、その銀を元として金7両をもって鉄灯籠を求め大師堂宝前に永代献灯され、今なお明かりが灯されています。灯籠の願文に法泉寺が類焼を免れたのは仏のお加護によるものと、仏恩に感謝すると共に、難渋する人達の心に光明を願い、また国家の安全のために献灯するという主旨が刻まれています。又、文化10年には垣生山端村民から寺へ大火の救済の感謝として手水鉢を寄贈されており、これも今なお参拝者の皆様に利用されています

文政10年(1827年)大師堂(3間四面)再建

天保5年(1834年)女乙明神社(棟行二間半、梁行二間)

天保14年(1843年)永代土砂加持会を開創

(3)近代(明治〜平成)

 自憲上人代の明治31年(1898年)山門再建

 海圓上人代の大正14年(1925年)本堂修復と御拝新築

       昭和9年(1934年)庫裡再建並びに会場新築

 

 諦善代の昭和17年(1942年)戦時下の非常金属回収に応じて釣り鐘(70貫余)並びに仏具等を供出する。

 昭和20年9月(1945年)終戦の翌月、未曾有の暴風来たりて伽藍の被害甚大なるも荒れるに任せること2年

 昭和22年〜24年(1947〜1949年)の間本堂・庫裡・大師堂・釣り鐘堂・女乙神社・門土塀等の修繕を行う。

 昭和22年(1947年)釣り鐘(百貫)新造する

 昭和25年(1950年)釣り鐘堂を大師堂前より山門南側に移転する。

       練塀の新築

 昭和26年(1951年)円福寺での合同浬槃会から当山にて修行を始める。

 現住慶法代の平成6年(1994年)本堂(7間8間)を再建

 平成7年(1995年)庫裡・事務所(5間半14間)を再建

 平成8年(1996年)山門再建

(4)寺宝 

大般若経600巻(文政年間)・舎利塔(文化14年)大師行状曼陀羅5幅(寛政年間作)・両界曼陀羅(寛政年間作)釈迦涅槃像(天保年間)・嫡嫡相承唯一人記(安永年間)朱子 晦庵書 大黒天(天保年間)十六善神画像(天保年間)如意輪観音画像(文化年間)慈雲和尚書・閑閑子書(慈雲和尚弟子)不動明王画像(智証大師筆)・平成の両界曼荼羅

大般若経600巻(文政年間(1818年〜1830年))とは

大般若経は、お釈迦さまが説かれたお経で、仏教の中心思想である一切皆空の理(ことわり)が述べられています。
 大般若会とは、『大般若経』六百巻を転読(てんどく)することによって、『般若経』の空(くう)の教えを体得し、すべての苦厄(くやく)を消しさって、内外の怨敵(おんてき)を退散(たいさん)させ、五穀豊穣や国家安寧(こっかあんねい)を祈念し人びとを幸福な生活にみちびいてゆくことを目的とした大法要であります。
 
 この大般若会には本堂中央須弥壇上に十六善神様の掛軸をお祀りします。
まん中の仏様はお釈迦さまで、お釈迦様の右手前に、獅子にまたがっておられる仏様は文殊菩薩、「三人寄れば文殊の智恵」といわれますように智恵を代表する仏様であります。左の方に、文殊菩薩と向き合って象に乗っておられる仏様は普賢菩薩であります。文殊菩薩が仏様の智恵を代表するのに対して、普賢菩薩は仏様の慈悲の象徴であります。仏様の徳は悲智円満と申しまして、慈悲と智恵とを円満に備えておられるのです。その仏様の徳を二人の菩薩様がそれぞれ代表しておられるわけであります。 次に、お釈迦さまの左右に八人づつ、剣や槍や斧などを持った恐ろしい顔をした方々が描かれておりますが、これは十六善神と申しまして大般若経を守護し、仏法を信ずる皆さまを護ってくださる方々のお姿であります。このほか、やさしいお顔の法涌菩薩、泣き顔をした常啼菩薩、ともに大般若経に深い因縁のある菩薩様であります。

 それから一番前の方、向って右に、お経を沢山背負ったお坊さんがおられます。このお方が大般若経をインドから中国に持ち帰って、漢文に翻訳された有名な玄奘三蔵法師(げんじょうさんぞうほうし)であります。玄奘三蔵法師と向き合って左の方に、シヤレコーベをネックレスのように首にぶらさげている赤鬼のような恐ろしい人がおりますが、これが深沙大王という悪魔の王様であります。昔も昔、今から千年以上も前のこと、インドを天竺、中国を唐の国といった当時、唐の国からはるばる天竺に渡り、仏教を研究してお経をたずさえて帰る坊さんがあると聞くと、深沙大王は途中の砂漠に待ち伏せして、そのお坊さんを殺害し、仏教が外国に伝わることを妨害しておりました。ぶらさげたシャレコーベは、そうして殺したお坊さんの骸骨であります。ところが玄奘三蔵法師が唐から天竺に渡り16年の間、仏教を研究し大般若経をはじめ、数多くのお経を持ち帰るとき、深沙大王は不思議にも悪心を捨てて善心を起こし、今までの悪魔が仏法の守護神にかわり、玄奘三蔵の一行を無事唐まで送り届けてくれたのであります。そうした因縁により、深沙大王も仏法守護神の一員として祀られているので ありますが、この一事を以ってしても、大般若経の功徳力がいかに大きいものであるか、玄奘三蔵という人がいかに徳の高いお方であったかがわかります。


 私たちになじみ深い『般若心経』も、玄奘三蔵法師が翻訳したとされています。みじかいお経の中に、仏教のエッセンスがこめられている『般若心経』にくらべるなら、『大般若経』六百巻は膨大です。大般若経は、数あるお経の中でも最もありがたい、霊験あらたかなお経であり、ご祈祷、ご祈願に読まれるのは当然のことでありますが、何しろ六百巻という膨大なものでありますから、ほかのお経のように一字一句を飛ばさずに読む真読というわけにはまいりません。そこで転読といって、偈文を唱えながら一巻一巻パラパラと転飜(てんぽん)し、導師の方丈様だけが金欄表装の部厚い経本を読誦されます。このお経は大般若経の第578巻目の理趣分といいます。このように理趣分を読み、その他は転読するというのが、昔から伝わる大般若会の儀式作法であります。

 大般若経を転読する際に《諸法皆是因縁生。因縁生故無自性。無自性故無去来。無去来故無所得。無所得故畢竟空。畢竟空故是名般若波羅密、南無一切三宝、無量広大、発阿耨多羅三藐三菩提》 《大意 諸法は皆是れ因縁より生ず。因縁生の故に自性なし。自性なきが故に去来なし。去来なきが故に所得なし。所得なきが故に畢竟空なり。畢竟空なるが故にこれを般若波羅密と名付く 》と唱えます。
 大般若経にはこの《般若波羅密》が説かれてあり、これを煮詰めれば「般若心経」となり更に煮詰めれば先の呪文になるのです。更に密教的唱文として唱える文になると「ノウボバギャバテイ ハラジャハラミタエイ タニャタ シレイ シレイ シレイ シレイエイサイ ソワカ」となるのです。
 この世の中の一切の現象はみな因縁生、つまり因と縁により出来ており、すべては相依相関、持ちつ持たれつの関係にあって何一つとして独存無縁のものはないのであります。従って、諸法は固定的不変の実体というものではなく、無去来とは刹那生滅の存在であり無所得・不可得ということであります。この一切法の「空」を観ずることができるというのは「般若波羅密」の力であるのです。その力は一つの物の動きも、一人の人間のおこないにも深甚なる法力は無限にひろがってゆくのです。

 玄奘三蔵法師の約16年にわたるインドヘの大旅行は、のちに『西遊記』などの物語に編集されるほどに有名であります。
三蔵法師が長安を出てインドに向かったのは、貞観元年(627)といわれます。タクラマカン砂漠の北路をとり、ハミ−−トルファン−−カラシャル−−クッチャ−−タシュケント−−サマルカンド−−バーミアン(アフガニスタン)−−カーブル−−ガンダ−ラ−−カシュミール−−マトウラー−−カピラバストウ−−クシナガラ−−ベナレス−−ブッダガヤ−−ラージャグリハ−−ナーランダと歩みます。三蔵法師がインドのマカダ国に到着したのは633年長安を出発して、約6年の歳月が経っていました。
玄奘はナーランダ仏教大学に5年間滞在し、その後インド各地を旅します。そして、643年玄奘は帰国の途につきました。帰路は天山南路をとります。途中ホータンの国王は玄奘を篤くもてなし、しばらくここに滞在します。玄奘はここで唐の国王に上表文を書いて出しました。国禁を破って国外へ出たのであり、天子の許しを乞う必要があったのです。天子より「早く帰国せよ」との命。更に沿道の国々には玄奘をもてなすようとの勅命が出される破格の扱いでありました。貞観19年(645)玄奘は16年ぶりに長安の土を踏むことができました。玄奘は一躍大スターでありました。玄奘が持ち帰った経典は、大乗経224部、大乗論192部、小乗の経律論193部、因明論36部、声明論13部、合計520夾657部。他に多数の仏像や仏舎利などを持ち帰って長安の弘福寺に納められました。

 『西遊記』では玄奘三蔵がインドにお経を取りに行く物語でありますが、実際的には玄奘三蔵の生涯においては、中国に帰ってからの方が重要です。すなわち、持ち帰った経典の翻訳という大事な仕事に、彼は取り組んだのです。玄奘三蔵が翻訳した経典は「大般若経」600巻、「瑜伽師地論」100巻、「成唯識論」10巻、「大毘婆沙論」200巻、「倶舎論」30巻など、合計75部、1335巻に達する。この分量は、中国歴代の約経総数の4分の1にあたり、いかに玄奘三蔵が偉大な翻訳者であったかがわかります。
 玄奘三蔵の翻訳で特筆すべきはなんといっても『大般若経』600巻の翻訳でありましょう。玄奘三蔵は、晩年の生命力のすべてをかけて顕慶5年(660)正月から翻訳に取り組みました。その翻訳には4年に近い年月がかかりました。途中を略したり、意味だけにせず、もとに書かれているとおりに訳したからです。この翻訳作業が完了するやいなや、長安の玉華寺で供養がおこなわれ、多くの不思議な瑞祥(めでたいできごと)がおこり、唐の高宗皇帝は、とくに『大般若経』へ序文を寄せました。このように、玄奘三蔵のほん訳が終わった時からすでに、人びとのあいだでこのお経に対する信仰が語られており、今に至る大般若会の原点が翻訳完了時にあったことがわかります。そして、翌麟徳元年(664)2月5日に玄奘三蔵は亡くなります。『大般若経』の翻訳は玄奘三蔵の最後の大事業であったのです。
 日本に伝えられたのは、7世紀の末頃のことと思われます。それは文武天皇の大宝三年(703)に薬師寺などで『大般若経』が読まれたという記録があるからです。とくに天皇や豪族たちが発願し、当時の高僧たちが転読するのですが、その目的が、怨霊(おんりょう)をしずめる、災厄をのがれる、疫病(えきびょう)をはらうといった、世俗的な苦悩からの離脱の方に重点があったことは否定できません。五穀豊穣や国家安寧(こっかあんねい)といったものよりも目立っていることが注目されます。これは、もともとの「大般若」の空の教えとは、ちょっとつながりがないように見えますが、空を空じる力と考え、「ありがたくないもの」を空じ、退散せしめる、ひとつの呪力(不思議な霊力)と考えているところは、いまの大般若会にいたるまで一貫しているといえます。このことは、また、『般若心経』が呪力をそなえた、ご祈祷のお経として、昔からずっと信仰されていることと同じであるといえましょう。

垣生の大般若会

現在の垣生地区の大般若会は「般若入れ」とか「般若さん」と呼ばれ5月から7月の頃にかけて各地区の自治会単位の主催で行われます。
 自治会町内の辻辻に祈祷札を立て結界(バリヤー)を作り町内の平安と護国豊饒を祈願して、自治会青壮年部の人たちが十六善神様の掛け軸と大般若経六百巻を担ぎ、半鐘をけたたましく鳴らし塩水を打ち、ナンマイダー、ナンマイダ-とかけ声とともに町内中の一切の魔を追い出しながら各家の玄関先まで行きます。玄関先では大般若経典の下をくぐったり、掛け軸で肩や腰をたたいてもらい病気平癒、厄難退散を祈ります。
 また更に各家には般若会の祈祷札を玄関に貼り、家運興隆、息災延命を願います。
 (昔の般若入れは玄関から座敷を通り抜けることが厄難退散の意味でした。そのため、挨拶もなしに勝手にきて、勝手に帰る人を「般若入れ」と言われたものです。)


 
 平成の両界曼陀羅
 当山本堂内陣の両わきに大幅の両界曼陀羅が色鮮やかにかけられています。この曼陀羅は現代美術家の伴野久美子女史が本堂落慶記念に数年かけて制作し平成7年4月8日当山へ奉納されたものです。この曼陀羅の大きさは約縦6メートル、横3メートルもあり、見るものを圧倒します。また、伝統的な曼陀羅とは少し色使いが異なるのが特長です。真言宗の曼陀羅は世界は一見バラバラのようですが、よく見れば調和と秩序を保っていることを示し、また宇宙全体に生きつづける「仏の達逞しい知恵の働き」と「仏の豊かな慈悲心」を説いています。この曼陀羅の心を色彩の表現により色鮮やかにいきいきと仏の活動を私たちに示してくれています。

 伴野久美子経歴


 金剛界曼陀羅は、九の区画に諸尊を配置したもので、如来の知恵を顕わすといわれております。
  胎蔵界曼陀羅は、大日如来を中心に諸尊を放射状に配置したもので如来の慈悲を顕  わすといわれております。

伴野久美子(ばんの・くみこ)経歴
[学歴・職歴]
1955 愛媛県新居浜市生まれ
1974 愛媛県立新居浜西高等学校普通科卒業
1978 甲南大学経営学部卒業
1981〜1984 大阪府立現代美術センター勤務
1985〜2000 日本工業新聞社大阪本社編集局経済部所属
1999 オフィス・バン設立

[主な芸術活動歴]
1978 元永定正氏に師事。芦屋市展、宝塚市展、神戸市展、兵庫県展等で入賞・入選多数。
1980 から毎年、個展を開催。主な現代美術のコンクール(ジャパン・エンバ美術コンクール、吉原治良賞コンクール展、現代日本美術展、IBM絵画イラストコンクール、洋画100和歌山大賞展、朝日現代クラフト展、伊丹現代クラフト展等)に入選。兵庫県立美術館招聘「兵庫の美術家」、伊丹市立クラフトセンター常備展等、グループ展招聘多数。

[主な舞台活動(企画・製作、舞台美術、公演)歴]
1993 能囃子コンサート(イシハラホール/大阪)
1995〜1998「能の音楽・間の音楽」シリーズ(ジーべックホール/神戸)
1998 京町家で聴く能囃子「雛の節句 女流五人囃子の会」(奈良屋記念杉本家/京都)
1999 仏教と現代芸術「花と色〜曼茶羅、能、茶室」(関西セミナーハウス/京都)
2000 HEP FIVE学習塾「現代を生きる古典」シリーズ開始(ヘップホール/大阪)
2001 パフォーマンスイン ミュージアム「源流を 着る 舞う 奏でる」シリーズ開始(京都文化博物館/京都)

[主な収蔵先]
宇部市立美術館、トーン・アップ(梶A(樺|中工務店(学)大手前学園、(潟Aークホテル、(潟pックス、鰹o江寛建築設計事務所、潟uロック、梅錦山川梶A女乙山法泉寺、ATR-OSAKA中村歯科、国立総合研究大学院大学スコーププロジェクト、潟_ルトン、(財)山口文化会館 滴翠美術館、立興建設株ほか個人蔵
オフィス・バン/〒658-0064 神戸市東灘区鴨子ヶ原2-4-6、203
п@078・822・2545 PHS 070・6277・8893   Eメール bankumi@pearl.ocn.ne.jp 


           胎蔵界曼陀羅                          金剛界曼陀羅

  

釈迦涅槃像

嫡嫡相承唯一人記
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